1947年 8月24日
小平に付き添われ、中野区の昭倫寺(当時は「歓喜寮」)で創価学会に入信手続きを行なう。入信したことで、家からは勘当状態
1948年
「大世学院」(東京富士大学短期大学部)の政経科夜間部に入学。
1949年 1月3日
戸田が経営する出版社「日本正学館」に入社。少年雑誌『冒険少年』(同年8月に『少年日本』と改題)の編集に携わる。
5月 「日本正学館」編集長に就任。
秋 戸田から自分が勉強を教えるからやめろと勧められ「大世学院」を2年で中途退学する。
10月 「日本正学館」の倒産により、同じく戸田が経営する、金融業「東京建設信用組合」に日本正学館の全社員と共に入社。給料がまともに出ず苦しい生活を送る。
1950年 8月22日
「東京建設信用組合」が大蔵省から営業停止を命じられる。 戸田氏は事業破綻の影響が及ばないように創価学会の理事長職を辞任。
10月 戸田が新しく設立し、顧問となった、手形割引を主業務とする金融会社・「大蔵商事」(現「日章」)に移動。
11月27日 営業部長に昇格し、業績を上げる。
1951年 5月3日 戸田城聖氏が創価学会の第2代会長に就任。
5月 蒲田支部大森地区の地区委員に任命される。
7月 戸田会長直属の青年部(男子部)が結成され、 第4部隊の幹事長に任命され、間もなく第1部隊長
1952年 2月9日
戸田会長の信頼を得て、創価学会青年部の教育参謀に任命される
3月 参謀室長となる。青年部1万人総登山や、体育大会などの斬新な企画を立てる。さらに渉外部長に就任し、対外的交渉を行う。
5月3日 砂糖卸会社で重役を勤める戦前からの有力会員の 次女、白木かねと結婚。 目黒区三田に住む。
8月27日 創価学会は日蓮正宗の信徒団体(法華講)でありながら、東京都知事の例外的措置をもって宗教法人の認証を得る。
1953年 11月25日
25歳のとき長男の誕生を期に、正式に「太作(たいさく)」から「 大作(だいさく)」に改名。当時は創価学会の文京支部長代理。
1954年 3月30日
青年部参謀室長に任命される。同日 設置された「情報部」の最高顧問ともなる。この頃、「大蔵商事」の仕事を離れる。
12月3日 新設された「渉外部長」を兼任。
1955年 3月11日
北海道小樽市の小樽公会堂における日蓮宗身延派と創価学会との法論において司会を務める。身延派を邪教と批判し、日蓮正宗の正当性を主張。
1956年 7月
第4回参議院議員通常選挙において、大阪地方区の選 挙参謀を担当し、元プロ野球選手の白木義一郎を初当選させる。
1957年 7月4日
参議院大阪地方区の補欠選挙が行われた際、渉外部長として6万人の創価学会員に戸別訪問を指示したとする公職選挙法違反の疑いで逮捕され、大阪東警察署と 大阪拘置所に15日間勾留される「大阪事件」。
7月29日 創価学会幹部45人と共に起訴され、検察官より禁固10か月の求刑を受ける。
1958年 3月1日 日蓮正宗の総本山大石寺の大講堂落慶法要
4月2日 急性心衰弱により、戸田会長が他界(享年58)。
4月28日 「学会葬」で司会を務める。
6月 自ら新設した総務を青年部参謀室長と兼任。
1959年 6月2日
第5回参議院議員通常選挙において選挙参謀を務め、全国で249万票を獲得、無所属で立候補した創価学会員6人を当選させる。
6月30日 同じ参謀室の北条浩、龍年光と共に「創価学会」の理事に就任。
青年部参謀室長からは降りる。
◎とりあえず「ウィキペディア」から引用しています。これをベースに今後も加筆、修正を加えていきます。
「池田大作の軌跡」平和と文化の大城 (3)が発刊
「青葉荘」の思い出
「池田大作の軌跡W」から、人間「池田大作」に迫りたいと思います。
◆「青葉荘」の思い出
仙台から職を探しに上京し、戸田先生から池田大作青年を紹介してもらい五日間泊めてもらった渋谷邦彦氏。後年、当時の池田先生がどれだけ大変な時期だったかを知る。
戸田先生が事業に敗れ、莫大な負債を抱え、体調の悪い中孤軍奮闘、給料も遅配していた時期にも関わらず、そんなそぶりも見せず外食券の綴りを分けてくれたりしてしたのだ。彼が仙台から持参した米二升ですら、自分は受け取らずに戸田先生に差し上げたとのこと。
普通の人なら自分のことで精一杯なのに、戸田先生に仕え、さらに他者への気配りを怠らない・・・この年齢ですでにこれだけのことが出来るとは・・・今の自分が恥ずかしいです。この一点においても、このレベルに達するのにあと何年かかるか判りません。
◆「青葉荘」の思い出
仙台から職を探しに上京し、戸田先生から池田大作青年を紹介してもらい五日間泊めてもらった渋谷邦彦氏。後年、当時の池田先生がどれだけ大変な時期だったかを知る。
戸田先生が事業に敗れ、莫大な負債を抱え、体調の悪い中孤軍奮闘、給料も遅配していた時期にも関わらず、そんなそぶりも見せず外食券の綴りを分けてくれたりしてしたのだ。彼が仙台から持参した米二升ですら、自分は受け取らずに戸田先生に差し上げたとのこと。
普通の人なら自分のことで精一杯なのに、戸田先生に仕え、さらに他者への気配りを怠らない・・・この年齢ですでにこれだけのことが出来るとは・・・今の自分が恥ずかしいです。この一点においても、このレベルに達するのにあと何年かかるか判りません。


